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執筆者の写真Mayako Nishi

自分の歴史を残すのか



日常をSNSやブログにあげたり、ラジオをやったりYouTubeをやったり、とにかくまぁ、たくさんの媒体を通して個人の情報を発信している。 もし私に子孫がいるとしよう。

何世代も前の自分の先祖の話を直接聞くことはできないが、メディアに残っている記録によって、ものすごい詳細にその時代のことや、その人物の情報を、彼らは得られるようになるのかもしれない。 血縁関係ではない例えをするなら。 例えば商店をやっている人が、何世代か前にその場所で店をやっていた人の詳細が、調べれば鮮明にすぐに分かる時代が来るのかもしれない。 自分が死んだ後も、誰かが自分の生活をまるで生きているように感じること。 そんなことを考えていると気が遠くなる。 インスタでやり取りしていた人が突然亡くなって、娘さんが「母が亡くなりました」という投稿をされたことがある。 会ったこともないその人が元気に暮らしているのだと思っていたら、現実には亡くなっていたということにショックを覚えた。 そのアカウントはどうなるんだろうと思った。 きっとその人が亡くなってから、娘さんはその人の投稿をじっくりと過去まで遡り、見た(もしくは見る日が来る)に違いない。 死んだ後に誰かに自分の日常を舐めまわされるのは、どんな気持ちなんだろう。

誰が見るという訳でもないし、まぁ死んでるから何も感じないのかもだけれど。

昔だったら書物や日記で奇跡的に残ったはずのものも、今はメディアで残され、どんどん情報は増え続けている。 検索したら何でも見つけることができる。 自分の死期が迫った時に、今まで発信してきたものを全て消し去って、この世を去る決断をするのか。 それともそのままにしておくのか。 自分の生きた証を残しておきたいという気持ちになるのか。 死に支度的に個人の歴史も全てデリートしていくのか。

自分の情報においても断捨離していくのか。 そういうことを考えていると、また夜も眠れなくなるのである。




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